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Vol.3 「19世紀末文学」 発売

Ombres et Lumières

矢崎彦太郎

《De la musique avant toute chose》(何よりも まず 音楽を)で始まるヴェルレーヌの「詩法(Art poetique)」は、1882年11月10日の「パリ・モデルヌ」誌上に発表された。この一句こそ、当時、詩、文学、演劇、舞踊、美術すべてに「音楽性」が求められ、音楽と深く交流があった事を物語っている。又、ベルグソンが1889年に発表した「時間と自由」の中で、《楽音が自然音より力強く我々に働きかけるのは、自然が感情を表明するにとどまるのに、音楽は感情を暗示するからである》と述べているのは、この時代のフランスの思潮をよく表している。

19世紀のフランスは、ナポレオンの帝政とその崩壊後、王政、共和制、帝政、共和制と多くの政体が次から次へと生まれ、政治的・社会的に目まぐるしい変動を重ねた。文学の流派もそれに同調するかのように、ロマン主義、写実主義、自然主義、象徴主義が現れたが、19世紀末に発生して、現代に至るまで大きな影響を及ぼしたのが、象徴主義(サンボリズム)であった。直接的な描写ではなく、喚起・連想させるものを提示して、描くものの本質を普遍的に暗示しようとする象徴主義が何年に生まれたのか特定出来ないとはいえ、先駆者であるボードレールが「悪の華」を出版したのは1857年で、彼の理論を受けついだ、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメ等が象徴主義の中心となった詩人達である。

この19世紀末芸術の特徴の一つとして、芸術の各ジャンルの間を隔てていた境界が取り除かれ、諸芸術の交流が可能になり、通信技術や交通手段の発達によって国際性を持ち始めた点が上げられる。例えば、1894年べルギーのブリュッセルで開かれた「自由美学」と題する展覧会は、ベルギーの作家の作品だけでなく、フランスからもピサロ、ルノワール、シニャック、ゴーガン、ルドン等が参加していた。さらに、ビアズレーの挿絵によるワイルドの戯曲「サロメ」の本、ロートレックのポスター、マイヨールが作ったタピスリー、ヴァロットンの木版画、アシュビーのデザインによるコップ、腕環も展示され、新進作曲家ドビュッシーの弦楽四重奏曲まで会場に流れていたという文字通り「自由な」美の饗宴であった。19世紀に分業化された芸術が、20世紀に於ける諸芸術の総合へと転換し始めたのが、19世紀末なのである。

ドビュッシー(1862〜1918)

牧神の午後への前奏曲

全体で110小節、時間にして約10分の小品とも言えるこの曲の持つ意味の大きさには計り知れないものがある。それは、ただ単にドビュッシーが自己の作風を確立させたというだけでなく、20世紀音楽への「前奏曲」となったからだ。

作曲のきっかけとなったステファヌ・マラルメ(1842〜1898)の「牧神の午後」は1876年に最終稿が刊行された。ドビュッシーより20才年長のこの象徴主義の詩人は、ワグナーに関するエッセイを発表する等音楽にも通じ、毎週火曜日にヴァレリー、クローデル、プルースト、ジッドといった若い文学者達を自宅に集めて、感化を与えていた。ピエール・ブーレーズは「徒弟の覚書」という音楽論集の中で、世紀末芸術家の中で20世紀芸術へ移行する原動力となった芸術家として、ドビュッシー、セザンヌ、マラルメの3人を上げており、その内の2人を結びつけている代表的な作品がこの曲である。

最初は、前奏曲・間奏曲・パラフレーズの3章に構想されたが、前奏曲作曲後に残りの2章については不要と考えられて作曲されなかった。1894年12月22日に国民音楽協会の演奏会で、ギュスタヴ・ドレの指揮によって初演され、大喝采を博し、直ちに全曲をアンコールされたという。初演に立ち合ったマラルメも非常に感激して、称賛する次の4行詩をドビュッシーに贈った。

森の神よ、もし一吹きで
お前の笛を華やかせたら
今こそドビュッシーが吹きこむ
光のすべてを聴きとめよ

ラヴェル(1875〜1937)

ステファヌ・マラルメの3つの詩

1913年春、スイスのレマン湖畔、モントルー近くのクラランで、ラヴェルとストラヴィンスキーは、ムソルグスキーの未完のオペラ「ホヴァンシチーナ」を完成する共同作業に取りかかっていた。他ならぬディアギレフからの依頼とあっては、2人共Noとは言えなかったのである。ところが、「ペトルーシュカ」のドイツ初演に立ち合う為、前年秋にベルリンへ行ったストラヴィンスキーが、10月9日にシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を公開試演で聞いた事に話が及ぶと、2人は余り気乗りがしない仕事は捨ておき、自分達も、「月に憑かれたピエロ」とほとんど同じ編成の曲を作り始めたのだった。

シェーンベルクの作品のスコアは1914年になって初版が公刊されたから、ラヴェルにとっては、ストラヴィンスキーの話だけが情報源であった。ストラヴィンスキーは、紀貫之の短歌等による《日本の抒情詩による3つの歌曲》を作曲した。ラヴェルは、マラルメの《ためいき》をまず作曲してストラヴィンスキーに捧げ、翌月にはフロラン・シュミットに捧げられた第2曲をパリで作曲し、和声的に一番ファンタジーのある、サティに捧げられた第3曲は8月にサン・ジャン・ドゥ・ルーズで作曲された。

彼は自分の曲と、シェーンベルク、ストラヴィンスキーの作品を一緒に演奏するコンサートまで計画していたが、これは実現せず、後年、ブーレーズによって行われた。興味深いのは、同じ1913年に、ドビュッシーも偶然、《ためいき》と《無益な請願書》をピアノ伴奏の歌曲に作曲している事である。

イベール(1890〜1962)

室内管弦楽のためのディヴェルティスマン

コメディ・ヴォードビル(Comedie Vaudeville)は、社会の広い層に演劇愛好熱が燃え上がり、旺盛な好奇心を持つ観客が増えた18世紀に、世相諷刺の小唄がついた一幕物喜劇の縁日芝居として発生し、19世紀中頃、ナポレオン3世の第2帝政時代に全盛となって、陽気な爆笑をパリ中に提供していた。その代表的作家がユジーヌ・ラビッシュ(1815〜1888)で、彼にとって初めての五幕物となった「イタリアの麦藁帽子」はマルク・ミッシェルの協力によって完成され、1851年パリで初演された。

ストーリーは、《浮気の最中に高価なイタリア製の麦藁帽子を馬に食べられた人妻が、浮気の発覚を恐れて、浮気相手の軍人と2人で馬の持主の青年に帽子の弁償を迫る。青年は花嫁と役所に結婚届けを出しに行く途中だったため、馬車8台を連ねた花嫁行列が帽子の探索に引き回され、やっと手がかりをつかんで同じ型の帽子を買い取りに行った所、それは実に食べられてしまった帽子についての情報だったので万事休す。浮気は露見しそうになるし、青年の結婚も破談になりかける。が、婚礼祝いの中に伯父がイタリアから取り寄せた全く同じ帽子がある事が判り、メデタシ、 メデタシ》というドタバタ喜劇である。

舞台音楽や映画音楽の分野にも多くの作品を残したイベールは、アムステルダム劇場が「イタリアの麦藁帽子」を上演する際に劇中音楽の作曲を依頼され、1929年初演された後、主要な以下6曲を選んで室内管弦楽のための組曲に編曲した。

  1. 導入
  2. 供揃え(Cortege)
  3. 夜想曲
  4. ワルツ
  5. パラード
  6. 終曲

フロラン・シュミット(1870〜1958)

サロメの悲劇

鋭敏な感受性、爛熟した官能性が充満していた19世紀末は、妖しげな沈黙と哀愁を湛え、病的な官能を無垢の清らかさの内に秘めた幻想的な女性像が支配した時代でもあった。その女性の最も典型的な代表が、新約聖書「マタイ伝」第14章、及び「マルコ伝」第6章の挿話に出てくる「サロメ」である。

サロメの物語は、フローベルが1877年に「三つの物語」の中で「エロディアス」という短編で描き、その影響を受けたワイルドは1892年にパリで戯曲に仕上げ、ラインハルト演出による上演に感動したリヒァルト・シュトラウスはオペラを作曲した。美術の方でもサロメの主題は、ギュスターヴ・モロー、ルドン等によって何度も取り上げられている。

ドイツ国境から数キロメートルしか離れていないロレーヌ地方のブラモンに生まれたフロラン・シュミットは、フォーレとマスネーに師事し、1900年にカンタータ《セミラミス》でローマ大賞を獲得した。ロベール・デュミエールの詩を基にした台本による《サロメの悲劇》は、まず1907年に小編成のオーケストラのための劇場音楽として作曲され、リヒァルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」のパリ初演の6ヶ月後に初演。

今夜演奏されるオーケストラ組曲への編曲は1911年で、ストラヴィンスキーに献呈された。トルコ旅行中に吸収した東洋趣味が巧みに採り入れられており、第2部で歌われる 「アイサの唄」はサルヴァドール・ペイタヴィの蒐集による死海沿岸で歌われる民謡である。

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