Vol.9 「モンフォール・ラモリの丘より」 年 刊発売
2008年3月20日 Ombres et Lumières
矢崎彦太郎
「まるで、無造作に切り取られたカマンベール・チーズだ」──ラヴェルの数少ない弟子の一人で、近年まで、パリ・コンセルヴァトワール指揮科教授であった、マニュエル・ローゼンタールは「ル・ベルヴェデーレ」(Le Belvedere)の外観を、この様に形容している。
所は、モンフォール・ラモリ(Montfort l’Amaury)。パリの南西、地図の左下にあるブローニュの森から、高速道路A-13に乗り、ヴェルサイユ経由後、N-12、D-76を通って約50Kmの地点。麦畑に囲まれた丘の上にある小さな村は、赤い屋根が連なり、石畳の狭い坂道を辿れば、教会のある広場に出る。さらに少し登って、廃墟となっている古いシャトーの前を左に折れると、傘の様な塔と高いテラスを持った奇妙な家が見える。坂地の為、表通り側は平屋で、庭に下りると2階建てになっているのが判る。白い手摺が付いたバルコニーからは、今、歩いて来た教会を中心に拡がる村、その先に、イル・ドゥ・フランスの柔らかな日差しの下、濃緑に輝くランブイエの森が地平線まで続き、広々とした空に接するのが見渡される。この美しい眺めは、見晴らし台という意味の屋号「ル・ベルヴェデーレ」にふさわしい。
愛国心から志願従軍した第1次大戦の体験と、1917年に最愛の母を失なうという2重のショックから、ストレスの限界を感じていたラヴェルは、必要な時、孤独になれる郊外で、しかもパリからそれ程遠くない家を捜していた。彼は、この家を1921年に4月16日に登記、購入し、5月から住み始めて、趣味に合わせて、徐々に内装を改築していった。
玄関を入ると、自ら描いた幾何学模様の壁紙で小さく仕切られた部屋は、全て黒と白、灰色に統一され、彼の小柄な体型に合わせた狭い廊下のつき当りに、音楽室がある。母親の肖像画が見下ろすグランド・ピアノの上には、曇りガラスに彫刻を施した球形のランプと、ハンドルを回して、釣鐘状のガラスケースに入っている舟を波間に上下させる置物がある。他の部屋にも、ルイ・フィリップ様式の家具の上や飾り棚に、ラヴェルが蒐集した、偽物の中国製陶器、はなはだ疑わしい日本の版画、ぜんまい仕掛けで鳴くナイチンゲール、潜水人形、象牙の小箱等が所狭しと並べられて、この家で作曲されたオペラ「子供と魔法」の舞台と見紛うばかり。本棚の一部は、忍者屋敷の様な、どんでん返しの戸になっていて、その裏には、さらに小さな隠れ部屋が現れ、家全体が玩具箱の体を成している。
「ル・ベルヴェデーレ」時代に作曲された曲は、今夜演奏される作品の他に、「ヴァイオリンとチェロのためのソナタ」「ツィガーヌ」「ヴァイオリン・ソナタ」「ボレロ」「ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ」等が主な曲であるが、モンフォール・ラモリに移る前の作品も、例えば「マ・メール・ロワ」の雰囲気は、この家のイメージそのものであり、椅子の背にラヴェルが描いたフルートを吹く少女からは、「ダフニスとクロエ」のフルート・ソロが聞こえて来る。
1928年6月には、オネゲル、イベール、ロラン=マニュエル、ジュルダン=モランジュ等多くの友人が集い、レーリツ作によるラヴェルの胸像披露パーティーが、一晩中賑やかに聞かれ、「モンフォール・ラモリの即興曲」と語り継がれた。しかし、その後、1932年に受けた自動車事故の後遺症と思われる脳障害に悩まされる。1937年12月中旬、ラヴェルは、脳手術を受ける為にパリへ行き、2度とモンフォールに戻る事はなかった。手術から9日経った12月28日未明、62年間刻み続けた心臓のリズムに、終止符が打たれた。
「ル・ベルヴェデーレ」は、通常は一般に公開されていますが、現在は、外壁修復の為、一時的に閉鎖中です。夏頃には、工事が終る予定との事です。訪問を希望される方は、33-(0)1-34860089 に電話で開館の確認をされる事をお勧め致します。アドレスは、7.rue Maurice Ravel, 78490 Montfort l’Amaury
ラヴェル(1875-1937)
左手のためのピアノ協奏曲/ピアノ協奏曲
ラヴェルは、ドビュッシーと共に、20世紀のピアノ曲に大きな足跡を残し、次世代の作曲家に多大な影響を及ぼした。晩年、最後の大作が、同時進行で作曲された、2曲のピアノ協奏曲であった事は、象徴的である。両曲共、1929年に着手されたが、作曲の動機としては、ト長調の「両手のための協奏曲」の方が先らしい。彼は、1927〜28年に行なったアメリカ演奏旅行が大成功だったので、再び渡米を考え、自分で独奏しようと意図していたものの、健康上の理由から、この計画は実現されず、1932年1月14日、マルグリット・ロンの独奏と、作曲者自身の指揮によって、パリで初演された。ニ長調の「左手のための協奏曲」は、「両手」着手後間もなく、哲学者ルードヴィヒ・ヴィットゲンシュタインの兄で、第1次大戦で右手を失ったオーストリアのピアニスト、パウル・ヴィットゲンシュタインから依頼を受けて作曲を始めた。こちらは、ヴィーンで1931年11月27日に、ヴィットゲンシュタインの独奏、ロベルト・ヘーガーの指揮で初演されたが、独奏部が余りに難しく、勝手に譜面を変えて演奏されたので、ラヴェルをいたく失望させた。1933年1月27日に、ジャック・フェヴリエを独奏者に迎えてパリで再演されて、初めてラヴェルの書いた通りの楽譜が音になった。
この2曲は、ピアノ演奏技巧はもちろん、表現、内容や性格まで極端に異なる。「左手」は自ら課した技術上の制約に、ストイックに立ち向う壮大さがある。ジャズの影響は「両手」より顕著で、快活さというよりも攻撃的でアグレッシブな音や、アドリブ風な個所も聞かれる。緩・急・緩の部分から成る単一楽章の曲。一方、「両手」は、モーツァルトやサン=サーンスのコンチェルトから直接受け継いだ伝統に、ジャズの色が少し加わり、全体的にディヴェルティスマン(嬉遊曲)風な、明るい喜びに溢れている。アレグラメンテ、アダジオ・アッサイ、プレストの3つの楽章から構成されている。
ムソルグスキー(1839-1881) ラヴェル編曲
展覧会の絵
ラヴェルの作曲家としてのスタートに影響を与えたのは、ロシア国民楽派とシャブリエの2つだと言われている。リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー、ボロディン等ロシア国民楽派の華麗なオーケストラの色彩、斬新なハーモニー、独特なメロディ・ラインはラヴェルだけでなく、ドビュッシー等にも影響を与えた。
モデスト・ムソルグスキーは、ロシアの大地主の末っ子として生まれ、幼時から母にピアノを習う。近衛士官学校卒業後、陸軍に入隊したが、軍医であったボロディンとの出会いがきっかけとなり、19才で軍籍を離れ、バラキレフの指導の下、音楽に専念する決心をした。1873年、ムソルグスキー34才の夏、同年輩で親友の建築家、画家であったハルトマンが、突然、心臓病で世を去り、大きなショックを受ける。翌年、ハルトマン遺作展覧会が開催され、その印象を綴ったのが、1874年に完成されたピアノ組曲「展覧会の絵」であった。
1911年来、サティ、ムソルグスキーの「ホヴァンシチーナ」、シューマン、ショパン、シャブリエ等を既にオーケストレーションしていたラヴェルは、1922年、指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーから「展覧会の絵」をオーケストラに編曲する依頼を受け、多くの打楽器を伴う3管編成のオーケストラに仕上げて、10月19日にパリ・オペラ座で初演された。 彼は、管弦楽法の悪い音楽は存在せず、存在するのは悪い作曲だけだという意見を持っていた。「展覧会の絵」では、ムソルグスキーとラヴェルの創作過程が、あたかも同一化したかの如く渾然一体となり、編曲にありがちな、ぎこちない違和感とは、全く無縁である。各曲のタイトルは、次の通り。
- プロムナード
- こびと(グノムス)
- 古い城
- テュイルリー
- ビドロ
- 卵のからをつけたひなの踊り
- サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ
- リモージュの市場
- カタコンブ
- 雌鶏の脚の上の小屋(ババ・ヤガ)
- キエフの大門
プロムナード
プロムナード
プロムナード