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Vol.12 「ディアギレフを巡る葛藤」 発売

Ombres et Lumières

矢崎彦太郎

スペイン国王、アルフォンソ13世が尋ねられた。「ディアギレフ君、君は指揮者ではないし、ダンサーでもない。ピアニストという訳でもない。一体全体、君は何をしておるのかね?」機知に富んだ会話と人心掌握の術に 長けた希有の興行師は、満面に笑みを浮べて答えた。「陛下、畏れ多くも、 陛下と同じでございます。あくせく働くことはおろか、これといった事は、一切何も致しません。ですが、私は、なくてはならない人間なのです。」

ディアギレフは、1872年、ウラル山脈近くにあるペルミで、貴族の家庭に生まれた。典型的なディレッタントで、リムスキー・コルサコフに作曲を習ったり、文芸・美術雑誌「ミール・イスクストヴァ」を創刊して評論を書き、展覧会をコーディネイトしていた。

ロシアとフランスは、啓蒙君主であった女帝、エカテリーナ2世(在位1762-96)以来、文化的に接近していたが、ビスマルク率いるプロイセンに対抗する為、1894年に露仏同盟を締結するに及んで、政治・経済の結び付きも強められた。時代の流れを鋭く嗅ぎ分けて、ディアギレフは1906年に、パリで「ロシア美術展」を開催する。1907年には、パリ・オペラ座で、リムスキー・コルサコフ、グラズノフ、ラフマニノフ等が自作自演する「ロシア音楽会」を企画し、翌1908年は、シャリアピンにタイトル・ロールを歌わせて《ボリス・コドノフ》を上演。以上の周到な準備を重ねて、いよいよ1909年、パリ・シャトレ座にバレエの登場となり、パリっ子達が度胆を抜かされた、一大センセーションを巻き起した。

バレエの原型は、ルネッサンス期に北イタリアで生まれ、1533年、カテリーナ・ディ・メディチとアンリ2世の婚礼の際、フランス宮廷に持ち込まれた。太陽王ルイ14世の厚い庇護もあり、18世紀末に「ロマンティック・バレエ」として完成されたが、19世紀後半になると低俗化して、凋落の一途を辿る。一方、ロシアでは、17世紀にロマノフ王朝に取り入れられた後、西欧化政策の一環として発展を続け、19世紀中頃には、タリオーニ、プティパ等優れた踊り手、振付師をフランスから招聘し、高い水準の技巧と、チャイコフスキーの3大バレエに代表される強い創作エネルギーを保持していた。つまり、20世紀初頭の時点では、本家フランスと分家ロシアの勢力関係は全く逆転していて、ディアギレフは、この関係を巧みに利用したのだった。

ロシア・バレエ(Ballets russes)としての公演は1911年からであるから、1909年、10年の公演は、マリインスキイ劇場バレエ団選抜チームによる、休暇中のアルバイトであった。このアルバイトには、劇場の古いしきたりに反発した、将来性のある若手不満分子が多く参加した。背景には、1905−07年の第1次ロシア革命の挫折があったと思われる。ロシア・バレエの結成によって、世界で初めて、王室や国家に属さない、プライヴェイトな商業的バレエ団が誕生したのである。

ロシア・バレエの初代振付師フォーキンとディアギレフが、まだロシアに居た1904年に、ペテルスブルクで見たイザドラ・ダンカンの踊りは、彼等の舞踊美学の方向付けを確固たるものにする。サンフランシスコに生まれたアメリカ人のダンカンは、裸足で踊り、自然で自由な足の動きや、ギリシャ風の薄衣を纏った上半身と腕の動きが新鮮な印象を与えた。その動きに比べると、トゥシューズで拘束され爪先立ちで踊るポワントの技法は不自然な形に見え、又、プティパ流のクラシック・バレエに在るパ・ドゥ・ドゥやディヴェルティスマンは、台本の筋を中断させる不純物でしかないと思われた。ただ、ダンカンは舞台装置をほとんど用いず、音楽もベートーヴェン、ショパン等既存の曲を使ったのに対して、ディアギレフはバレエを総合芸術ととらえ、演出、振付、舞踊、音楽、舞台装飾、衣装デザイン全てが、必然性を持って有機的に調和しなければならないと考えた。その為には、作曲家や美術家との協力関係は必至となり、意見の食い違いによる確執やスキャンダルも日常茶飯事となった。

ロシア・バレエの為に作品を書いた作曲家は、ストラヴィンスキー、ドビュッシー、ラヴェル、リヒャルト・シュトラウス、サティ、ファリャ、プーランク、プロコフィエフ等が居り、装置・衣装に携わった芸術家のリストには、バクスト、ピカソ、マティス、ローランサン、ブラック、ユトリロ、エルンスト、ミロ、ルオー、デ・キリコ、シャネルの名が見える。作品の傾向は、1909年の《ポロヴェツ人の踊り》《クレオパトラ》に於けるエキゾティシズムから、《ダフニスとクロエ》(1912)の古代ギリシャ趣味、《春の祭典》(1913)の原始的野蛮さ、《三角帽子》(1919)のスペイン趣味、《牝鹿》(1924)の都会風官能、《鋼鉄の踊り》(1927)の精力的な近代主義と常に変貌を遂げ、新しいものを求め続けた。1929年のディアギレフの死によるロシア・バレエの解散までに、主なコレオグラファーはフォーキン以後、ニジンスキー、マシーン、ニジンスカ、バランシンと受け継がれたが、その交代劇がスムーズに行なわれた訳ではなかった。高い芸術的水準を狙う余り、経営は不世出のプロデューサーの力を持ってしても常に苦しく、「天才を見つける天才」は「借金の天才」とまで言われた。《三角帽子》に使ったピカソ作の闘牛場を描いた緞帳を売って危機を凌いだ事もあったと言われている。

20世紀初頭の20年間、ヨーロッパ中を席捲したディアギレフの足跡は大きく、今日のバレエ界の動きも、何らかの形で、ディアギレフとロシア・バレエの遺産につながっている。

デュカ(1865-1935)

ラ・ペリ

パリで生まれたデュカは、コンセルヴァトワールで、デュボワとギローに師事した。ギローのクラスで、3才年上のドビュッシーと出会い、ドビュッシーが亡くなるまで、親しい友情で結ばれた。当時の若いフランス人作曲家の多くと同様、ワグナーに心酔し、1886年には、バイロイト詣をしている。1910年から亡くなるまで、コンセルヴァトワール作曲科の名教授として、メシアン、デュルフレ、ロドリゴ等を育てた。

自己批判が極めて厳しかったデュカは、納得出来ない作品を、生前に全て焼却してしまった。残されたのは、7曲の主要作品と3つの小品だけである。1910年作曲の《ラ・ペリ》は現存している最後の作品で、「一幕の舞踊詩」の副題がついており、《”ラ・ペリ”に先行するファンファーレ》も作曲されている。

古いペルシャの伝説が台本の元になっており、登場人物は、ラ・ペリ(仙女)とアレキサンダー大王のペルシャ名であるイスカンデルの男女一人ずつである。最初は、ロシア・バレエの1911-12シーズンに初演される予定であったが、ラ・ペリの役をトゥルハノヴァに与える様にデュカが主張し、イスカンデル役のニジンスキーは、デュカ自身が指揮する事を出演の条件に持ち出して双方譲らず、結局、ロシア・バレエのプログラムから外されてしまった。1912年、シャトレ座でトゥルハノヴァによって初演された。(イスカンデルを誰が踊ったかは不明)

ファンファーレが鳴り止むと、舞台は、ペルシャの乾いた荒地。イスカンデルが不死の花を求めて、さまよっている。光の神、オルムュツの聖所に仕える仙女が、不死の花を持って眠っているのを見つける。イスカンデルは花をそっと取ったが、仙女に気付かれてしまう。仙女の余りの美しさに、イスカンデルが恋心を覚え、乞われるまま花を返すと、仙女は光の中に消える。イスカンデルは闇につつまれ、最期の時を迎える。

fontaine - Dukas

(写真12-1)「ラ・ペリ」を作曲したアパルトマンは1977年に建て代えられて、現在は、玄関ホールに当時を偲ばせる大きな噴水だけが置いてある – 20. rue de l’Assomption, パリ16区

サティ(1866-1925)

パラード

サティは、ノルマンディ地方、カルヴァドス県にあるセーヌ河口の小さな港町、オンフルールで生まれた。伝統的な音楽教育に反発して、パリ音楽院を中退、モンマルトルのキャバレーでピアノを弾く。反ワグネリズムを最も早く鮮明に打ち出して、ドビュッシーやラヴェルに影響を与え、時代の先駆者となる。「救世主イエスの芸術の大本山である教会」という宗教を打ち立てて、自ら教祖になったかと思えば、39才でスコラ・カントルムに入学して、年下のルーセルの弟子となり、対位法を3年間勉強して卒業する等、凡人の尺度では計り切れない奇行が多かった。

「ジャン・コクトーのテーマによる現実主義的バレエ」と副題が付いている《パラード》は、台本をコクトー、振付けはマシーン、舞台装飾、衣装をピカソが受持って、アンセルメの指揮により、1917年にシャトレ座で初演された。

ディアギレフにとって、次から次へと起こるスキャンダルは、恰好な宣伝材料であった。1912年、ニジンスキーが踊った《牧神の午後への前奏曲》のエロティシズム過剰によるスキャンダル、1913年の《春の祭典》スキャンダルに続き、《パラード》も、奇抜な装置、衣装、音楽でスキャンダルとなる。しかし、この斬新さは、若い作曲家達に強い刺激を与え、6人組が誕生するきっかけになった。

全曲は切れ目なく演奏されるが、筋書きと各部分のタイトルは次の通りである。

短い【コラール】が終ると【赤い引幕の前奏曲】の音楽と共に幕が引かれ、第1のマネージャーと【中国の手品師】が登場する。次に第2のマネージャーと【アメリカ人の少女】が現われ、馬や自転車の曲乗りをしてラグタイムを踊る。第3のマネージャーの口上に続いて【アクロバット】が始まる。マネージャー達は、激しく【フィナーレ】を踊り、【赤い引幕の前奏曲続編】で幕となる。客寄せ芝居であるパラードを本公演と勘違いした観客は、パラードが終ると皆どこかに散ってしまい、本公演には一人も入ってこないので、マネージャーはがっかりする。

Musee Erik Satie - maison Satie vécutentrée - Musee Erik Satie

(写真12-2,3)サティが生まれ、12才まで住んだオンフルールの家。現在はサティ博物館になっている。 – Musee Erik Satie 88. rue Haute 14600 Honfleur

ドビュッシー(1862-1918)

遊戯

ドビュッシー最後のオーケストラ作品となった《遊戯》は、1912年にバレエ・リハーサル用のピアノ・スコアが約3ヶ月で書き上げられ、翌13年に、オーケストレーションが完成された。ディアギレフがドビュッシーに《遊戯》を委嘱したのは、ニジンスキーが《牧神の午後への前奏曲》を振付けて踊り、スキャンダルを引き起した直後であった。《牧神》をバレエに使う事自体、余り乗り気ではなかったのに渋々承諾したドビュッシーは、このスキャンダルが踊りの仕草に向けられたものだったので、騒ぎから慎重に距離を置いていた。ところが、1913年5月13日に、ニジンスキー、カルサヴィナ、ショラーの踊り、バクストの装置・衣装、モントゥーの指揮による《遊戯》の初演が、シャンゼリゼ劇場で行なわれると、今度は、スキャンダルすら起こらない。当時の聴衆にとって、ドビュッシーの曲は全く捉え所のない退屈な音楽に思われて冷たく迎えられ、散々の酷評を受けたのだ。しかも、その2週間後、同じシャンゼリゼ劇場で、《春の祭典》初演という暴動寸前の歴史的大スキャンダルが起こると、《遊戯》の方は、一般音楽ファンからは、その存在も忘れられてしまった。

第2次大戦後になって、ブーレーズ、シュトックハウゼン等が、《遊戯》の特徴である「絶え間ないテンポの移行と、瞬時に輝きを変えていく音色によって構築された、流動を続ける形式、又は時間のねじれ」を再発見、再評価して、20世紀前半に書かれた最も重要な先駆者的作品であると名誉挽回された。

《遊戯(Jeux)》といっても、子供のお遊戯ではなく、Jeux de l’amour(愛の遊戯)とJeux de sport(スポーツのプレイ)を合わせたものと考えられる。Jeux には、ゲーム、コート、競技場、動き、駆引き等広い意味があり、遊戯という日本語訳から一般的に受けるイメージが、原題に適っているとは思えない。余談ながら、私は学生の頃、この曲のレコードが日本ではほとんど出ていなかったので、タイトルだけ見て、子供の為の曲だと思っていた。ドビュッシーは、次に《おもちゃ箱(La Boite a joujoux)》という曲を書いているから、子供の為の2曲セットだと早合点していたのだ。

夜間照明に照らされた黄昏時のテニス・コートでボールが見失われ、若い男が捜しに行く。二人の若い女性が現われ、一人ずつ踊っていると、男が戻ってきて、片方の女と踊り抱擁する。もう一人の女は嫉妬にかられ、皮肉っぽくからかうので、男は踊りの相手を変え、最後には三人で踊る。そこに、どこからか、又ボールが落ちてきて、三人は驚き、夜の公園に消えて行く。

maison Debussy vécut

(写真12-4)ドビュッシーが1905年から亡くなるまで住んだ家 – square no.24, 80. avenue Foch(当時はavenue du Bois de Boulogne と呼ばれた)パリ16区

ラヴェル(1875-1937)

ラ・ヴァルス

ラヴェルは、ディアギレフからの依頼で、《ダフニスとクロエ》を作曲し、1912年、フォーキンの振付け、バクストの装置・衣装で初演されたが、振付けに不満を持っていた。ロシア・バレエの内部でも、フォーキンと新進のダンサーであったニジンスキーの間で揉め事が絶えなかった。1914年のロンドン公演の際には、経費節約を計るディアギレフとラヴェルの間に、合唱の人数の件で一悶着あったらしい。にもかかわらず、1919年、ディアギレフはラヴェルに新作を依頼してきた。

ラヴェル自身も、1906年頃から、《ウィーン》という題で、ウィンナ・ワルツを音楽的に讃える曲を書くプランがあったので、この申し出に飛びつき、冬の間、パリ南東500kmのアルデーシュ地方に隠遁して作曲に専念する。翌年3月に「オーケストラのための舞踊詩」と副題が付いた《ラ・ヴァルス》を完成。しかし、2台ピアノ編曲版を聴いたディアギレフは、最初から最後まで単なるワルツでしかないから、バレエには向かないといって採用しない。ストラヴィンスキーの《プルチネルラ》と一緒に公演して欲しいと思っていたラヴェルは痛く傷つけられ、完全に絶交状態となってしまった。数年後に、モンテカルロで両者が出会った時にも、ラヴェルは決闘を申し込んだ程であったから、生涯、交遊関係は復帰しなかった。

《ラ・ヴァルス》は、1920年12月に、ラムルー管弦楽団のコンサートで、音楽のみ初演され、大好評を博した。しかし、ラヴェルは舞台上演をあきらめ切れず、8年後に、《ボレロ》やドビュッシーの《聖セバスティアンの殉教》を委嘱したイダ・ルビンシテインによって舞台初演されたが、バレエとしては成功しなかった。

ラヴェルが、華やかなワルツの裏に、マーラーに相通じる終末感、喪失感を抱いていた事は、スコアの冒頭に書かれた、短い暗示的なシナリオからも明らかである。1855年は、フランツ・ヨーゼフとナポレオン3世の時代であった。

「渦巻く雲の切れ目から、ワルツを踊る何組かのペアがきらめいて見える。雲が次第に晴れてゆくと、輪舞する人々に満ちた巨大なホールが見分けられる。場面はますます明るくなり、フォルティッシモでシャンデリアの輝きが炸裂する。1855年頃の宮廷である。」

Appartment Ravel vécutplat - Ravel

(写真12-5,6)ラヴェルが1908-17年に住んだ凱旋門近くのアパルトマンと、《ダフニスとクロエ》が、ここで作曲された事を示すパネル – 4, avenue Carnot, パリ17区

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