ラヴェル、モンフォール、そしてプルースト 2012年5月19日 刊発売
(二期会ニューウェーブ・オペラ劇場の公演プログラムに掲載された矢崎さんの寄稿文を、ここに全文掲載します。)
「パリから少なくとも30kmくらい離れた辺りに小さな家を探して戴けませんか?」音楽学者ジャン・マルノールの娘ジュヌヴィエーヴに宛てた一通の手紙からドラマは始まった。スイスに住んでいた叔父の遺産を相続したラヴェルは、パリの喧噪からのがれ孤独になれる郊外で、しかも彼が望むときには友人達をパリから呼び寄せられる範囲内に住みたいと思ったのだ。いささか身勝手なこの希望は、正直に言えば誰でも心の内に秘めている想いだろう。親しい友情の中にも、いくばくかの煩わしさが含まれているのは事実だ。
孤高の人かと思えば友人達と冗談を飛ばし合うのが好きな淋しがり屋、心根は優しくて思いやりがあるのに表面的にはクール、脆弱な体だが強情でむこう見ずな熱血漢、プライドが高く楽観的でいて執念深くいつまでも思い煩い、几帳面で神経質な性格ながら日常的な事にルーズで無秩序といった矛盾や葛藤を抱える心情は珍しくないかも知れないが、ラヴェルの場合は相反の振幅が大きかった。それは5回もローマ大賞に落選し、不正ではないかと疑問視された判定を繞ってパリ音楽院の院長が辞任に追い込まれたスキャンダルと、後年、その反動かと言われたレジョン・ドヌール叙勲を彼が拒絶した前代未聞のスキャンダル、いわゆる二つのラヴェル事件にも顕著に現れている。
しかも、家探しを依頼する手紙を書いた頃、彼は心身共に疲労とストレスの極限に達していた。主な原因は二つ。一つは、1914年8月に勃発して1918年まで続いた第一次世界大戦である。20歳の時にヘルニアと虚弱体質で兵役免除されていたにもかかわらず、愛国心から空軍に志願したが、結局陸軍で軍用トラックの運転手の任務に就いた。近代科学戦の嚆矢となった第一次大戦は、かって人類が体験したことのない苛酷な戦いで、ラヴェルもヴェルダンの前線近くに於いて、何度か命を落としそうになった。もう一つのショックは1917年1月に最愛の母を亡くした事だった。流ちょうなスペイン語を話し、民謡・舞踏等香しいスペインへのノスタルジーを息子に植え付けたバスク人の母は、サヴォワ出身のスイス人技術者、ピエール・ジョゼフ・ラヴェルと結婚し、スペイン国境に近いサン=ジャン=ドゥ=リューズに隣接する漁村のシブールでラヴェルを出産した。港に面した家は現存し、その通りはラヴェル埠頭(Quai Maurice Ravel)と名付けられている。
「まるで無造作に切り取られたカマンベール・チーズだ」 ラヴェルの数少ない弟子の一人で、近年までパリ・コンセルヴァトワール指揮科教授であったマニュエル・ローゼンタールは、〈ル・ベルヴェデーレ(Le Belvedere)〉の外観を、このように形容している。ジュヌヴィエーヴが見つけたのは1907年に建てられた粗末な家。しかし、ラヴェルは見晴らし台という意味の屋号〈ル・ベルヴェデーレ〉にふさわしい、バルコニーからの美しい眺めに魅せられた。イル・ドゥ・フランスの柔らかな日差しの下、地平線まで続くランブイエの森は濃緑に輝き広々と開けた空に接しているのが、どの部屋からも見渡せられる。彼は1921年4月16日に登記し、5月から住み始めて、1927年まで趣味に合わせて内装を徐々に整えていった。
場所はイヴリーヌ県のモンフォール=ラモリ(Montfort-l’Amaury)。パリの南西、地図の左下にあるブーローニュの森から高速道路A-13に乗り、ヴェルサイユ経由後N-12 、D-76を通って約45kmの地点。麦畑と牧草地に囲まれた185mの丘の上にある小さな村で、当時の人口は1500足らず、現在でも3500人がひっそりと暮らしている。赤い屋根が連なる磨り減った石畳の細い坂道を辿ると、村の中心である教会前広場に出る。さらに少し登って、廃墟となっているアンヌ・ドゥ・ブルターニュの居城の前を左に折れれば、傘のような塔と高いテラスを持った奇妙な家が見える。坂地の為、道路側は平屋で、裏側の庭に下ると3階建てになっているのが判る。
道から9段登って玄関に入る。自ら描いた幾何学模様の壁紙で小さく仕切られた部屋は、黒と白、灰色を基調とし、161cmの小柄な体型に合わせた狭い廊下のつき当たりに、音楽室がある。母親の肖像画が見下ろす、エラール社のグランドピアノは1909年製。タッチが軽く、クリスタルのように透明で、やや硬質な響きは、音の立ち上がりが早いクリアな輪郭だ。ピアノの上には、曇りガラスに彫刻を施した球形のランプ2台、ハンドルを回すと波間を上下する舟が入った釣鐘状のガラスケースと《高貴にして感傷的なワルツ》をバレエにした時の題名にちなんで《アデライド》と名付けられた女の子の人形が置いてある。食堂、サロン、書庫のルイ・フィリップ様式家具の上や、中国風サロンと言われた小部屋の飾り棚には、機械好きのラヴェルが蒐集した、ぜんまい仕掛けでさえずるナイチンゲール、潜水人形、偽物の中国製陶器、はなはだ疑わしい日本の版画、象牙の小箱が所狭しと並べられて、この家で作曲された「子どもと魔法」の舞台と見紛うばかり。サロンの棚の一部は、忍者屋敷のような、どんでん返しの戸になっていて、その裏にはさらに小さな隠し部屋が現れ、家全体が玩具箱の体を成している。庭に面した階下に寝室と浴室がある。引っ越した当初は屋内に階段が存在せず、雨が降ると傘を差して寝に行かなくてはならなかったらしい。庭は広くないが、日本式庭園と呼ばれ、箱庭風に小さな池が作られ、小径の向かい側に菜園もあった。
〈ル・ベルヴェデーレ〉で作曲された曲は、他にも《ヴァイオリンとチェロのためのソナタ》《ツィガーヌ》《展覧会の絵(編曲版)》《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》《ボレロ》、2曲の《ピアノ協奏曲》《ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ》等がある。3匹のシャム猫と過ごした家の雰囲気は、モンフォールへ移る前に書かれた《マ・メール・ロワ》の童話世界を髣髴とさせるし、いすの背にラヴェルが描いたフルートを吹くギリシャ風の少女からは《ダフニスとクロエ》のフルート・ソロが聞こえてくる。
1928年6月10日には、オネゲル、イベール、ロラン=マニュエル、ジュルダン=モランジュ等多くの友人が集い、レイリッツ作によるラヴェルの胸像披露パーティーが一晩中賑やかに開かれ、「モンフォール=ラモリの即興曲」と語り継がれた。
1000冊の蔵書を擁する書庫では、バルザック、ユゴー、ラシーヌ、モリエール、ラ・フォンテーヌ等に挟まれてプルーストの著作が覗いている。トーマス・マン、ジェイムス・ジョイスと並び、20世紀の最も重要な作家の一人であるマルセル・プルースト(Marcel Proust)は音楽・美術に造詣が深かった。プルーストと親しかった作曲家のレイナルド・アーンは、コンセルヴァトワール時代にラヴェルの学友。ラヴェルが《亡き王女のためのパヴァーヌ》を献呈したポリニャック大公妃のサロンに、ブルーストとアーンも出入りしていた。自伝的要素を含むプルーストの代表作《失われた時を求めて》の最終編《見いだされた時》にはラヴェルの名前も現れ、”パレストリーナのように美しいが理解するのが難しい”と記され、他の書状では、ラヴェルを注目すべき才能と高く評価している。二人ともマザー・コンプレックスで、生涯独身を通した。『子供と魔法』の台本を制作したコレットの秀作《シェリ》は、プルーストから絶賛されている。
1932年10月パリでタクシーに乗ったラヴェルは衝突事故に巻き込まれた。翌年、この事故の後遺症とも思われる運動失調症と記憶喪失を伴う失語症に悩まされ始める。休養を取ると少し改善するものの次第に衰弱し、1937年12月、パリのクリニック・ボワローに入院して、萎縮した脳の手術を受けた。手術そのものは成功したと伝えられるが、9日後の12月28日朝、62年間刻み続けたスイス・スペインの時計は止まった。
主を欠いたモンフォール=ラモリの家は、その後ラヴェル記念館となって公開され、現在に至る。友人達を案内して、私は何度も訪れたが、特に1997年には修繕費用捻出のためのチャリティ・コンサートをラヴェル協会から要請されて足繁く通った。ラヴェルが息を引き取ったクリニックがあったボワロー通りは、私のアパルトマンから歩いて2分の距離。モンフォールから我が家に戻る時は、ラヴェル最後の道行きを、いつも思い浮かべないではいられない。
ラヴェル記念館に1954年から70年まで務めた管理人は、プルーストの最期を看取った家政婦のセレスト・アルバレであった。