Vol.1 「ディアギレフとロシア・バレエ」 年 刊発売
2008年3月3日 Ombres et Lumières
矢崎彦太郎
1909年5月18日、ノートルダム寺院から程近いセーヌ河沿いのシャトレ座に集った観客は、度胆を抜かし、ブラヴォーを連呼していた。ディアギレフ率いるロシア・バレエ (Ballets russes)のレペティシヨン・ジェネラル(公開試演)が行われたのである。6月18日まで1ヶ月間に亘って開催された公演は大成功理に幕を閉じ、1929年に没するまで、 ディアギレフは希有のプロデューサーとして、ヨーロッパ中にその名を馳せる事となった。
ウラル山脈ふもとのペルミで1872年、貴族の家庭に生まれたディアギレフは、 典型的なディレッタントで、文学、美術、音楽に通暁していた。若い頃は作曲をリムスキー=コルサコフに師事し、ピアノの腕前もかなりのものであったらしい。チャイコフスキーの《悲愴交響曲》の初演にも立ち会っている。又、蒐集した絵画の展覧会を開いたり、1899年から1904年には、芸術一般から哲学までをカヴァーしていた「ミール・イスクストヴァ(Mir Iskusstva)」という雑誌の刊行に携わっていた。
19世紀後半より20世紀初めにかけて、ロシアとフランスは政治的にも文化的にも関係を深めてきたが、ディアギレフも、このロシア・フランス間文化交流の波を受け、1906年にはパリで「ロシア美術展」を企画し、中世から現代に至るロシアの絵画彫刻を体系的に紹介する。1907年には、パリ・オペラ座で5回の「ロシア音楽会」を開く。これはリムスキー=コルサコフやグラズノフが自作を指揮したり、ラフマニノフがピアノを弾いてピアノ協奏曲第2番を演奏する等、さながらロシア音楽フェスティヴァルの様を呈していた。翌1908年は、やはりパリ・オペラ座で、シャリアピンが主役を歌った《ボリス・ゴドノフ》を上演するといった準備を重ねて、1909年のショッキングな「ロシア・バレエ」の出現となったのである。この辺りの興行師としてのディアギレフの周到さと先読みの確かさは見事の一言に尽きる。
ルネサンス時代に北イタリアで生まれたといわれるバレエは、カトリーヌ・ド・メディシスの婚礼と共にフランス宮廷に移入され、ルイ14世の保護を受けた後、18世紀から19世紀にかけて大衆化されて、《ジゼル》《レ・シルフィード》等ロマンティック・バレエが創られたが、19世紀後半になるとフランスでは衰退して、俗っぽい芸能、きわどい見世物にまで堕落していた。西欧でロシアのみが高い芸術的水準を維持し、プティパによってクラシック・バレエが確立され、チャイコフスキーによる三大バレエの様な名作が創作されたのである。
つまり、空白状態になっていた本家に高水準のバレエを、しかも当時パリで人気のあったエキゾティスムを盛り込んだ《ポロヴェツ人の踊り》《クレオパトラ》等のプログラムを携えて公演するという心憎い計算がされていた。しかし、彼は1909年の成功に満足する事なく、エキゾティスムから《ダフニスとクロエ》(1912)の古代ギリシャ風趣味、ストラヴィンスキーの《春の祭典》(1913)の原始的野蛮さ、《牝鹿》(1923)の都会風官能、プロコフィエフの《鋼鉄の歩み(Le pas d’acier)》(1927)に於ける精力的な近代主義と常に変貌を遂げ、新しいものを求め続けたのである。
ディアギレフはバレエを単に「踊り」ととらえる事なく、台本、演出、振付、音楽、舞台装置と衣装を統合した「総合芸術」ととらえていた。「天才を見つける天才」といわれた彼に作曲を委嘱された作曲家は以上の他にも、ドビュッシー、サティ、ファリャ、リヒァルト・シュトラウス、ヒンデミット、ミヨー、オーリック等が居り、舞台装飾もピカソ、マティス、ローランサン、ブラック、ユトリロ等枚挙にいとまがない程である。ただ芸術的成功とは裏腹に経営的には厳しかったらしく、公表しない事を条件にココ・シャネルからの援助を受け、衣装を担当してもらった事もある様だ。
プーランク(1899〜1963)
組曲《牝鹿》
大統領府のあるエリゼ宮から数メートルのソッセー広場2番地で生まれ、ルクセンブール公園沿いのメディシス通りにあるアパルトマンで亡くなったプーランクは生粋のパリジャンであった。軽快でみずみずしいリズムと都会的なセンスの良い優しい皮肉、父親の家系から受け継いだ敬虔な宗教的感覚が混在した作風で、天性の陽気さを生涯失わなかった。
5才でピアノを始め、15才の時には教育者として名声の高かったリカルド・ヴィニュスに師事するが、ピアニストであることだけでは満足せず作曲を始める。18才で《黒人狂詩曲》を発表し、早熟の天才として成功をおさめた。後に、デュレ、オーリック、オネゲル、タイユフェール、ミヨーと6人組を組織する。大先輩の作曲家サティが精神的指導者となり、コクトーがスポークスマンとなって、数年間に亘るこのグループの活動を助けた。彼らは同じ作風でもなければ、厳格な美学的スローガンを掲げた訳でもなかったが、厚い友情を絆として、それぞれ個人の信じる方法によって反ロマン主義的な道を歩んだグループだった。
《牝鹿》は1923年にディアギレフから《レ・シルフィード》の現代版のような雰囲気のバレエを書く事を依頼され、1924年1月6日に、ニジンスキーの妹であるニジンスカの振付、マリー・ローランサンの舞台装置と衣装で、1幕合唱付バレエとしてモンテ・カルロで初演された。フランス語原題の Les Biches には「若い婦人たち」という意味もあり、俗語風に言えば「かわい子ちゃんたち」である。動物の鹿が出てくる訳ではない。特別な筋書きのないこのバレエは、白を基調とした田舎の大広間に淡いブルーの大きなソファが置いてある空間の中で、船漕ぎの衣装を着た3人のハンサムな青年と、16人の娘達が、時にプルースト的情景をくりひろげながら優美に踊る。
プーランクは1940年にスコアを書き直し、ロンド、アダジエット、ラグ・マズルカ、アンダンティーノ、フィナルの5曲を選んで、今夜演奏されるオーケストラ組曲に再編した。
ラヴェル(1875〜1937)
ダフニスとクロエ
ドビュッシーと共に近代フランス音楽を代表する作曲家であるラヴェルは、フランス系サヴォワ人の血筋をひくスイス生まれの技術者であった父とバスク人の母の間に、サン・ジャン・ド・ルーズの隣にある小さな漁村シブールで生まれた。スペインとの国境が近い所である。ラヴェルはリズムの秩序と鮮麗な色彩を好んでいたので、バレエ曲には彼の特性が余す所なく表されているが、最も重要な作品の一つである《ダフニスとクロエ》は1909年から1912年にかけて作曲された。初演は、1912年6月8日にシャトレ座で、ピエール・モントゥーの指揮により行われた。台本、振付はフォーキンが、舞台装置と衣装はレオン・バクストが担当し、ニジンスキーがダフニスを、カルサヴィナがクロエを踊った。フォーキンの台本は、紀元3世紀頃のギリシャの詩人ロンギュスの作品を底本にしている。しかしラヴェルは「自伝的素描」の中で、「広大な音楽的壁画を作曲するのが私の意図で、古代の模倣を心がけたのではない。私が夢想するギリシャは18世紀後半のフランスの画家達が想像し描出したものに近く、そのイメージに忠実であろうとした」と語り、この作品を『舞踏交響曲(Symphonie choreographique)』と呼んでいる。
山羊飼いの少年ダフニスと羊飼いの少女クロエの牧歌的な恋をテーマにしたこのバレエは、続けて演奏される三つの部分から成る。
第1部は、明るい春の午後、パンの神殿とニンフの祭壇の前で、捧げ物を持って集った 若者や娘達が宗教的な踊りを始める。牛飼いドルコンとダフニスはクロエをめぐって踊り競いダフニスが勝つ。1人残ったダフニスを誘惑しようと妖艶なリセイオンが登場してもダフニスは誘いに乗らない。突然、海賊が戦闘ラッパの音と共に襲来し、クロエは拉致されてしまう。絶望して失神したダフニスは、3人のニンフに目覚めさせられ、パンの神に祈る。
第2部は海賊の陣営で、荒々しい「戦いの踊り」の後、首領の命令で引き出されたクロエが「哀願の踊り」を踊る。隙をみて逃げようとするが連れ戻される。その時、大地が裂け、パンの神の巨大な幻影が現れるので、海賊は驚いて逃げ出し、クロエは気を失ってしまう。
第3部は第1部と同じ祭壇の前でダフニスが眠っている。夜が明けて、あたりは次第に明るくなり、ダフニスと助けられたクロエが再会する。クロエが月桂冠をかぶっているので、パンの神がかつて愛したシリンクスへの思い出によってクロエを助けた事を知る。そこで2人は、パンとシリンクスになぞらえてパントマイムを踊る。フルートの調べに乗ってクロエは愛の踊りを踊り始め、ダフニスの腕の中に倒れ込む。2人は祭壇に羊を供えて愛を誓う。娘達、若者達も現れて2人を囲み、歓喜の踊りでクライマックスとなる。