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Vol.11 「フランス革命、その後 ──」 発売

Ombres et Lumières

矢崎彦太郎

Allons, enfants de la patrie, いざゆけ、祖国の子ら、
La jour de gloire est arrive! 栄光の日は来たれり

第7節まである、「ラ・マルセイエーズ」の冒頭である。1789年7月14日のバスティーユ襲撃によるフランス革命勃発以来、外国からの反革命の動きが活発となり、1792年4月20日には、オーストリーに宣戦布告。4月25日、ライン河沿いの国境の町、ストラスブールで開かれた兵士の壮行会の最中に、市長ディートリッヒは、工兵大尉でアマチュアの音楽家でもあったルジェ・ ド・リールに、軍を鼓舞するための曲を依頼する。気持の異常な高ぶりを覚えたルジェは、翌朝まで一晩で一気に、「ライン軍のための軍歌」を作詞・作曲した。この曲は、すぐ全国に広まり、同年7月、マルセイユ義勇兵がパリへ向って進軍する時に歌われ、パリ市民を興奮の渦に巻き込んだ。以後、人々は、この曲を「ラ・マルセイエーズ」と呼び、革命を讃える歌の代表的な曲となる。当時の一般民衆は、読み書きが出来ない者が多かったので、シャンソン、行進曲風な歌、オペラ等の劇場音楽が、政治的プロパガンダの効果的な道具として、革命派、反革命派の双方に重用され、さながら歌合戦の赴きを呈していた。

革命の直接の引き金になったのは、国の財政危機、天候不順による農作物の不作と飢饉の恐れ、ルイ16世の意志力の欠如と、ハプスブルク家出身の王妃マリー・アントワネットの浪費癖等を上げられるが、根本的には、王は神以外に弁明の必要がないとする絶対王政という政体が、もはや機能しなくなった事である。反王政的な、ボーマルシェの喜劇「フィガロの結婚」が、1784年にパリのフランス座で初演され、大好評を博して、全ヨーロッパに広まった事実は、その時代の趨勢を如実に現わしている。

フランス革命は、極めて複雑に進展した。絶対王政時代の社会は、貴族、ブルジョワジー(肉体労働に従事しない市民階級)、民衆(小手工業者や職人等)、農民の4つの階層で成り立っており、全ての階層が皆、王権に対して反旗を翻したものの、それぞれの目標とする所や理念は、かなり食い違っていた。それに加えて、外国からの干渉である反革命戦争が、事態をさらに逼迫させる事となった。各国の王家は、政略結婚から親戚関係を結んでいる事が多い。革命が自国に波及するのを恐れた諸外国の王家は、フランス王家を救うという大義名分を得て、フランスに攻め入った。ルイ16世自身も、フランスが負けて革命勢力が弱まる事を目論んで、オーストリーに宣戦したと伝えられている。

王政廃止によって、1792年に樹立された第1共和政となっても、革命は終結しない。不安定な政情は、1870年の第3共和政までの約80年間に、第1共和政(1792-1804)、ナポレオン1世の第1帝政(1804-1814)、ブルボン家の王政復古(1814-1815)、ナポレオン1世の百日天下(1815)、ブルボン家の第2次王政復古(1815-1830)、七月革命によるオルレアン家の七月王政(1830-1848)、二月革命による第2共和政(1848-1852)、ナポレオン3世による第2帝政(1852-1870)と目まぐるしく変遷を続ける。それに伴い、第6節でLiberte! Liberte cherie!(自由よ! いとしき自由よ!)と訴える「ラ・マルセイエーズ」も、演奏を奨励されたり、禁止されたり、時代の波に翻弄された。1879年になって、第1共和政の政令を復活する通達が出され、それ以後、「ラ・マルセイエーズ」は国歌として扱われている。

近代国民国家への道は、ヨーロッパ中を震撼させた変革と激動を生み、決して平坦なものではなかったのである。

メユール(1763-1817)

交響曲 第1番

北フランス、アルデンヌ地方にあるベルギー国境の町、ジヴェ(Givet)に生まれ、両親が貧困だった為、10才の時から、生地のフランシスコ会修道院のオルガン奏者となって、生計を助けた。メユールの演奏に感動した音楽愛好家の援助で、1778年にパリに移り、グルック、エーデルマンに師事した。1790年、オペラ・コミック座で「ウーフロジーヌ」を初演し、成功をおさめる。1793年に、革命政府によって新設された国立音楽院の教員となった。グレトリィ、ケルビーニ、ゴセック、ルシュール、ドゥヴィエンヌ等、錚々たるメンバーが、教員に名を連ねていた。2年後に国立音楽院が、国立コンセルヴァトワールに改組された後も視学に止まり、1816年には教授に任命されている。

41曲のオペラを作曲して、18世紀末のフランス・オペラの最も偉大な作曲家といわれたが、「出陣の歌」に代表される、革命的愛国歌も多く作曲している。交響的作品は、晩年近くになって書き始められ、5曲の交響曲を残した。(第5番は未完成)

交響曲第1番は、第1帝政期の1808年に作曲され、同じ年に作曲されたベートーヴェンの交響曲第5番との類似性は、よく指摘される。パリでの初演は、成功だったと伝えられているが、その後、フランスの舞台から長い間忘れられ、1838年に、メンデルスゾーンの指揮により、ライプツィヒ・ ゲヴァントハウスで再演された後は、ドイツ、イギリスで演奏される機会の方が多かった。

  1. Allegro
  2. Andante
  3. Menuet – Trio
  4. Final Allegro agitato

signe - rue Méhul

(写真11-1)パリ2区にあるメユール通りの表示。但し、メユールが、この地に住んでいたかどうかは不明。

ボィエルデュー(1775-1834)

ハープ協奏曲

セーヌ河口近くのルーアン(Rouen)に生まれ、大聖堂オルガニストであったブロッシュに教えを受けた。18才の時に、最初のオペラ「罪ある女」を発表し、2年後にパリに移り、エラール、メユール、ケルビーニと親交を結ぶ。ピアニストとしての名声も高く、1798年には、コンセルヴァトワールのピアノ科の教授になるが、妻に裏切られたため、サンクト・ペテルスブルクへ旅立ち、1804年から、ロシア宮廷作曲家となった。1812年にパリに戻った後、メユールの後任として、コンセルヴァトワールの作曲科教授に任命された。

1825年に初演された「白衣の婦人」は大好評を博し、フランスのオペラ・ コミックの代表作の一つとして、現在でも、時々上演されている。1826年から亡くなるまで、ロシアのトゥフォキン公が持っていた館(10、boulevard Montmartre)に住んでいたが、この館には、1829〜33年にロッシーニも滞在して、オペラ「ギョーム(ウィリアム)・ テル」を仕上げたといわれている。

友人のエラールが開発した、ダブル・アクション・システムにより、半音階を操作出来る様になったハープのための協奏曲は、1800年に出版されたが、作曲されたのは、第1共和政時代の1795年頃ではないかといわれている。

尚、Boieldieuの発音については、フランスでも、色々な説があり、ロベール辞典には[ボィエルデュー、ボワエルデュー、ボワルデュー]の3種類が書かれている。個人名なので、本人に質かなくては正確な所は判らないのだろう。

  1. Allegro brillante
  2. Andante lento
  3. Rondeau Allegro agitato

blvd. Montmartre

(写真11-2)
ボィエルデューが1826年頃から住んだ、10.boulevard Montmartre, パリ9区の現在

グノー(1818-1893)

交響曲 第1番

グノーの父は著名な画家、母はピアニストという恵まれた芸術環境の下、パリの中央、ノートル・ダム寺院の近く、サン・ミッシェル広場と隣り合わせの、サン・タンドレ・ デ・ザール広場の11番地に生まれた。1836年にコンセルヴァトワールに入学し、アレヴィ、ルシュールに作曲法を学び、3年後には、ローマ大賞を受賞した。ローマ滞在中に、パレストリーナの音楽に深く感動し、パリへ戻る途中、ドイツ、 オーストリーで、シューマン、メンデルスゾーンから強い影響を受けた。

ポピュラリティーという点で、グノーの「ファウスト」とビゼーの「カルメン」は、フランス・オペラの両雄である。他にも、「ミレイユ」「ロメオとジュリエット」という、ヨーロッパでは現在もよく上演されるオペラを残したグノーであるが、オペラ第1作「サッフォ」第2作の「血まみれの修道女」は失敗に終った。劇場との交渉や、台本作者との軋轢に疲れ果てていたその時期に、指揮者のパドゥルーから要請されて、彼のオーケストラの為に作曲されたのが、2曲の交響曲であった。第2帝政時代の1855年に、パドゥルーの指揮で初演された。

当時、グノーの弟子であった17才のビゼーは、師を手伝って、この曲をピアノ連弾用に編曲して影響を受け、同じ年に、ビゼーも交響曲ハ長調を作曲している。

  1. Allegro molto
  2. Allegretto moderato
  3. Scherzo Non troppo presto
  4. Finale Adagio – Allegro vivace

maison de naissance - Gounod

(写真11-3)グノーが生まれた家、11.place Saint – Andres – des – Arts, パリ6区は rue Danton が開通した時に取り壊された。写真は現在の広場の風景

jardin - Gounod

(写真11-4)グノーが5才の時に移り住んだ家の中庭 20.rue des Grands – Augustins, パリ6区

Villa - Gounodplat de villa - Gounod

(写真11-5,6)パリ郊外Saint – Cloudの3.rue Gounodにある、グノーの別荘と、その入口にある表示

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