Vol.13 「ギリシャへの憧憬とアルカイズム」 年 刊発売
2008年3月20日 Ombres et Lumières
矢崎彦太郎
ペロポネソス半島の付け根にある古い港町のナウプリオン。999段の石段を登って、海に突き出した岩山の城塞跡に辿り着く。眼下を見おろすと、周りに茂るオリーヴの樹々から直に油を流した様な夕凪の海は落日に照り返されて、橙色から深紅となり赤紫色に変わる。忍び寄る夕闇の中に、ホメロスが著したワインカラーの海が、突如出現した。作者の誇張されたイマジネーションとばかり思っていたものが、実体として目前に現われると、夢から急に覚めた様な戸惑いを覚え、自分が作品の中に居るのか、外に居るのか、一瞬判らなくなってしまう。ノルウェーでフィヨルド奥の海面に、ムンクが描く画布さながらの月影を見た時も「夢か現か」の錯覚を感じた。古代ギリシアが、オリンピックだけでなく、芸術、哲学、科学、民主政治等さまざまな面で、ヨーロッパ文化の源泉になっているのは、周知の事実である。「ヨーロッパ」という呼び名自体、ギリシア神話に登場するフェニキアの王女「エウロペ」に由来している。白い雄牛に姿を変えたゼウスは、エウロペをさらって、自分が生まれたクレタ島に連れ帰り、すべての人間の娘にまさる栄誉を彼女に与え、その子孫は彼女の名にちなんだ全く新らしい土地に住む事になると約束した。
ギリシアに人類が住んだ痕跡は、石器時代から認められるが、真の意味でギリシア文化が開花したのは、紀元前2000年頃クレタ島に生まれたミノア文明からである。約350年後にペロポネソス半島で成立したミケーネ文明を経て、紀元前5世紀から4世紀にかけて、古代ギリシアは「古典期」と呼ばれる黄金時代を迎え、政治的、文化的に未曾有の発展をみた。アレクサンドロス大王の東征に始まるヘレニズム時代には、ギリシアの古典文化が、ギリシア語という共通語により、大王によって拓かれた広大な地域に伝播したが、西方でローマが急速に台頭し、紀元前2世紀後半にはローマの支配が強くなる。紀元前30年、最後のヘレニズム王国となったプトレマイオス朝の女王クレオパトラが亡くなると、ギリシア世界は完全にローマ世界に併合されてしまった。AD313年に、ローマのコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、「異教」の烙印を押されたギリシアの神々は、闇に葬られた。
ルネサンス(renaissence)の意味は、文字通り、再び(re- )生まれる事(naissence)である。14〜15世紀のイタリアをはじめとするヨーロッパ世界に興ったルネサンスで再生したのは、中世以後ビザンツ帝国とイスラムに受け継がれていた古代ギリシア文化の認識で、18世紀の啓蒙思想のなかで「新古典主義」として育まれ、19世紀の自由主義の時代に確立された。ヒューマニズムと合理主義を基調とする古代ギリシアが残したものへの新たな意味付けや解釈を下敷にして、多くの創作が成されたが、それは古代ギリシアの正確な再現ではなく、再現、再発見する側の主義や趣向に即したものになり、「作り出された古代ギリシア」といった面が少なからず認められる。例えば、ギリシア神殿や彫刻は、白い大理石の静かさに満ちた明晰さと、禁欲的で崇高な自己浄化の姿を賞讃されたが、実際に造られた当時には極彩色に塗られ、彫刻の目に至っては、宝石による象嵌までされていたという事実は抹殺されてしまった。
今でもフランスでは、格調の高い会話にラテン語と古代ギリシア語の知識が必須であると言われている。1830年まで、トルコ領の一部に過ぎなかった現代ギリシアが、12ヶ国体制の発足メンバーとなり早期にEU加盟を果したのは、古代ギリシアの遺産に負う所が多い。東西冷戦の終結、ソ連崩壊に伴う国際間バランス・シートの上で変動する存在価値や、いまだに感情的なしこりを残すトルコのEU加盟問題に、21世紀のギリシアがどの様な対応をしていくのか、EU自体の方向性についての疑問とも相俟って、複雑な課題を孕んでいる。
サン=サーンス(1835〜1921)
若き日のヘラクレス(ヘラクレスの青年時代) 作品50
音楽史の年表と照らし合わせると、サン=サーンスの86年の生涯は、実際の年数よりも長く感じられる。ベートーヴェン没後8年の1835年に生まれ、ベルクが《ヴォツェック》を書き終えた1921年に亡くなったのだ。サン=サーンスは、ベルリオーズとリストという、ロマン派の作曲家の中でも最も華麗な二人から影響を受けた。4つの作品を残した「交響詩」というジャンルを知ったのも、リストを通してであった。1877年、42才の時に作曲された《若き日のヘラクレス》は、4曲中最後の作品で、《オンファールの糸車》《ファエトン》と同じく、ギリシア神話から題材が取られ、同時期に作曲されたオペラ《サムソンとデリラ》との共通性も指摘されている。
ゼウスとアルクメネの息子であるヘラクレスは、伝説上の英雄の中で最も偉大な人物であるが、若き日に、快楽と美徳との分れ道に直面する。3度で揺れ動くヴァイオリンが、ヘラクレスの煩悶を表わす。中間部の《タンホイザー》からの影響も垣間見られるバッカナールで、ニンフやバッカス神の巫女から誘惑されるが、英雄としての道を選んだヘラクレスは、報いとしてオリンポスの神々に迎えられて、不死の存在となった。
ドビュッシー(1862〜1918)
6つの古代碑銘
1890年代にドビュッシーが親しく交友していたサークルでは、古代ギリシアへの憧憬が流行していた。中心人物で詩人のピエール・ルイスは、ギリシアの高級娼婦が歌い上げた詩の翻訳という体裁を借りて《ビリティスの歌》を書き、この詩をもとにドビュッシーが《3つの歌曲》を1897年に作曲している。その後、ルイスは《ビリティスの歌》を朗読する際の伴奏的な付随音楽をドビュッシーに依頼し、1901年2月7日に300名程のプライヴェイトな集まりで発表された。2本のフルート、2台のハープとチェレスタという特異な編成による12の極く短かい楽章から成るこの曲は、出版されないまま、手稿が失なわれてしまった。
第1次大戦中の1914年、ドビュッシーは12の楽章から1、7、4、10、8、12の順で6楽章を取り上げ、ピアノ4手のための《6つの古代碑銘》と題して発表された。当初から、ドビュッシーは、出版社のデュランにオーケストラ用の編曲を意図していると語っていたが、彼の余命はそれを許さず、1932年にスイスの指揮者エルネスト・アンセルメによって編曲された。未出版ではあるが、パイヤールによる弦楽合奏用の編曲も存在する。
各楽章は以下のタイトルを持っている。
- 夏の風の神、パーンの加護を祈るための
- 無名の墓のための
- 夜が幸あらんための
- クロタルをもつ舞姫のための
- エジプト女のための
- 朝の雨に感謝するための
Pour invoquer Pan, dieu du vent d’ete
Pour un tombeau sans nom
Pour un tombeau sans nom
Pour la danseuse aux crotales
Pour l’Egyptienne
Pour remercier la pluie au matin
神聖な舞曲と世俗的な舞曲
この作品はプレイエル社の委嘱で、1904年に作曲された。当時、プレイエル社は、エラール社のペダル・ハープに対抗してクロマティック・ハープを売り出し、宣伝の為にクロマティック・ハープ用の曲が必要とされたのである。ペダル・ハープは全音階的に調律された47本の弦を、7本のペダルを操作する事によって半音階を演奏していたが、この方法によると、半音階の速いパッセージは、極めて困難であった。半音階を用いる音楽語法が広まるにつれて、半音階に調律されたハープが開発されたのであるが、弦の数を78本に増さなければならないという難点があり、結局、この楽器が使われたのは短い期間だけであった。
《夜想曲》と《海》の間に作曲されたこの曲は、半音階的であると同時に全音階的でもあるので、現在では、普通ペダル・ハープで演奏される。音楽的にはアルカイックな色彩が強く、古い教会旋法を活用して中世風な音の世界を醸し出し、同じ3拍子でありながら、2つの楽章は見事なコントラストを成している。
尚、ドビュッシーには、他に《舞曲(Danse)》というラヴェル編曲によるオーケストラ曲があるので、それと区別する為に、こちらの舞曲は、楽章の題を付けて呼ばれる事が多い。正式には《Danses》である。(2曲有るので複数のsが付き、原題ではかろうじて区別出来る)
ルーセル(1869〜1937)
バッカスとアリアーヌ 第1組曲、第2組曲
ルーセルは、ベルギー国境に近いトゥルコワンに生まれ、幼少の頃から母にピアノを習った。成人して海軍士官となったが、音楽への志を断ち切れず、25才の時軍職を去り、ダンディに作曲を師事する。1909年にはマルセイユから船出をして、セイロン、インド、ヴェトナム(当時はインドシナ)、シンガポール、カンボジアを廻った。このアジア体験は、5音音階やヒンズーの旋律といった音楽的視野の拡大に効果があり、《エヴォカシオン》、オペラ《パドゥマヴァティ》といった作品に結実した。しかし、ルーセルが真に独自の作風を確立したのは、1926年に作曲された《ヘ調の組曲》以降である。新古典主義的な作風は、生命感溢れる強靱なリズムが基本にあり、印象派風な色彩感、対位法的書法等と結び付いている。
海を愛するルーセルは、北ノルマンディ海岸のディエップから約10km程エトルタ方向に下った所に「ル・ヴァステリヴァル(LeVasterival)」という別荘を持ち、《バッカスとアリアーヌ》は主にこの地で、1930年に作曲された。台本は、小説家のアベル・エルマンがギリシア神話《テーセウス英雄伝》から、ミノタウロス退治の後日譚であるバッカス(バッコス、ディオニソスとも呼ばれる)とアリアーヌ(アリアドネ)の物語を2幕のバレエにまとめた。バレエの第1幕がオーケストラのための第1組曲、第2幕が第2組曲となっている。1931年に、パリ・オペラ座で、フィリップ・ゴーベールの指揮、バッカスを踊ったセルジュ・リファールの振付、ギリシア生まれのイタリア人美術家であるジョルジオ・デ・キリコの装置、衣装等で初演。
あら筋は次の通りである。(①②は切れ目なく演奏される)クレタ島の迷宮(ラビリンス)には牛頭人身の怪物ミノタウロスが閉じ込められていて、9年目ごとに7人の青年と7人の少女が生け贄として、アテナイから送られて来た。この話を聞いたテーセウスは怪物退治のため、クレタ島に乗り込む。クレタ王ミノスの娘アリアーヌはテーセウスに恋し、彼を助けて怪物退治を成功に導いて、生け贄から救われた青年、少女と共にアテナイに向う途中ナクソス島に立ち寄る。この場面からバレエ音楽が始まる。
第1幕(第1組曲)
- クレタ島を無事脱出できた青年、少女達の歓喜の踊り。
- クレタ島の迷宮の踊りで、テーセウスは怪物との決闘の場面を想い出しながら再現して見せる。
- バッカスが現われ踊りが止む。好奇心にかられてアリアーヌが近付くと、バッカスは黒いマントで彼女を覆い眠らせる。テーセウスと青年達はバッカスに飛びかかるが、バッカスの命令に逆らえず、海に戻される。
- バッカスは情熱的に踊る。夢遊状態のまま、アリアーヌも踊りに加わるが、次第にテンポが遅くなり、バッカスはぐったりしたアリアーヌを岩の上におろして、姿を消す。
第2幕(第2組曲)
- 目を覚ましたアリアーヌは、テーセウスが見当らなので、自分は捨てられたと思い岩壁から身を投げるが、バッカスの腕に抱き留められる。
- バッカスはアリアーヌと夢の踊りを再び踊る。(第1幕の④)
- バッカスの踊り。
- バッカスとアリアーヌが接吻すると、魔力によってこの島の生命が甦り、アリアーヌにワインの注がれた金盃が捧げられる。
- アリアーヌの踊り。
- アリアーヌとバッカスの踊り。
- バッカナールとアリアーヌの戴冠。
(写真13-1)灯台に行く道と分れ道になっている
(写真13-2)写真13-1の別れ道の標識の次に出る“アルベール・ルーセル小路”の標識
(写真13-3)ル・ヴァステリヴァル 入口の門の横にある標識:住所は、Le Vasterival,76119 Varengeville-sur-Mer
(写真13-4)車寄せ側から見たルーセルの別荘
(写真13-5)ルーセルの別荘の玄関[一般公開はしていない。持ち主であるシュトゥルツァルーマニア公妃に連絡を試みたが、留守だったので止むを得ず現場まで行って無断で入って行くと、番犬が案内してくれてポーズまで取ってくれた。]
(写真13-6)庭側から見たルーセルの別荘