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Vol.14 「──そして、地には平安」 発売

Ombres et Lumières

矢崎彦太郎

緑の草原が緩やかに上下する、なだらかな丘陵地帯。所々に小さく寄り添った針葉樹の茂みが、波間に浮かぶ小島の様に点在する肥沃な大地。その静寂に包まれた田園風景の真っ只中を、一筋の線が地平線の彼方まで貫いている。燦々と降り注ぐ陽の光の下、ヒバリと覚しき鳥だけが、自然を断ち切る鉄条網の両側を忙しく行き来しながら、しきりに何かをついばんでいる。醜く遮られた向う側で数百メートルごとに建つ監視塔からは、銃口が不気味に覗き、辺りを窺う。所は、ウィーン近郊のオーストリア・ハンガリー国境。今から35年前、東西冷戦は少しづつ緊張緩和の兆しが見えてきたとはいえ、まだ共産圏勢力が西側資本主義国と厳しく対峙していた頃、地図の上に描かれたものでない、現実の国境線を初めて目の当りにした。渡欧直後に受けたこの印象は余りにも強烈で、小鳥程の自由も無い人間の愚かさを想い、国家・社会・政治と一個人の結びつきとは何かと問いかけ、「一民族・一言語・一国家」は、25年間住み慣れた日本という独特な地域に漂う儚くも単純な幻想に過ぎず、ヨーロッパでは全く通用しないと自覚した。

20世紀は戦争の世紀であったと呼ばれる。確かに、科学・技術の発達、国際関係の複雑化により、軍事だけでなく、経済・思想等も巻き込み、総力戦となった2つの世界大戦は、それまでにない規模の大きさで、犠牲者、参戦国を増大させた。しかし、歴史書を繙けば判るように、ヨーロッパの歴史は戦乱と闘争の歴史であるといっても過言ではない。16世紀の絶対主義時代に、一部の大商人や貴族が王権と結んで行った富の不公平な分配と課税の重圧が、17・18世紀になってイギリスやフランスで市民革命を引き起し、19世紀に自己の過剰な利益追求が他者との共存を無視した「帝国主義」へ走った結末として、20世紀の戦いがある。

実際に戦渦をかいくぐった体験を持たない者としては、戦争について多くを語る資格は無いが、武力・国際紛争や、銃の鈍い光沢を身近に感じる事は、日本の外では、割とよく経験する。ヴェトナム戦争末期にバンコクで見かけたアメリカ兵のギラギラと虚ろさが同居した異常な目つき、アパルトヘイト下のヨハネスブルク、ベルリンの壁崩壊直前に東独難民が溢れていたホフの街、機関銃に守られながら遠足をするエルサレムの小学生達、そして今年2月に行ったアルジェリア国立交響楽団とのアルジェリア国内演奏旅行は、8人の防弾チョッキに身を固めた屈強な機動隊員と8挺の自動小銃に前後を護衛されての移動であった。

いかなる作曲家も、生身の人間である以上、時代の趨勢や、周囲の環境・風土と無関係に生活し、作曲をしている訳ではない。作品自体は、世俗的な夾雑物を取り除いた形に昇華され、時の流れを超越して語り継がれたとしても、作品が生まれるに至った経緯、要因は必ず存在する。今回は、第2次大戦に関りのあるフランス音楽を演奏して、「──そして、地には平安」への道程を追尾するのがテーマである。争いが人間の業(ごう)の一つならば、美を模索するのも人間の相(さが)なのだ。

イベール(1890-1962)

祝典序曲

1939年9月3日、英仏両国はドイツに宣戦布告をして、ヨーロッパは第2次大戦に突入する。この年、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、ファリャがヨーロッパを去り、翌40年には、バルトーク、ミヨー、パデレウスキー等多くの音楽家が亡命した。日本では、1931年の柳条湖満鉄爆破事件に端を発した満州事変から、1937年廬溝橋事件による日中全面戦争へと進み、騒然とした世相となっていた。

1940年は、紀元(皇紀)2600年に当る。紀元とは、日本書紀に記された神武天皇即位の年(B.C.660年)を元年として、明治5年に定められたものである。1940年当時、日本は欧米諸国とは開戦していなかったので、東京開催を予定されていた第12回オリンピックは中止としたものの、政府は、英仏独伊ハンガリーの5ヶ国に、紀元2600年のための祝典音楽を依頼した。この背後にどの様な政治的配慮があったのか正確には不明であるが、日本政府として外国政府にオーケストラ曲を委嘱するのは前代未聞の事であった。それに答えて、イギリスからブリトゥンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」、ドイツからリヒャルト・シュトラウスの「祝典音楽(作品84)」、イタリアからピツェッティの「交響曲・イ調」、ハンガリーからシャーンドルの「交響曲」、そしてフランスから送られて来たのがイベールの「祝典序曲」であった。ブリトゥンの曲は、祝典曲にレクイエムとは何事かと日本側が抗議をして黙殺され陽の目を見なかった。他の4曲は出版され、7月に歌舞伎座で盛大な披露演奏会が催された後、レコードも発売となった。

第1次大戦中は海軍士官として従軍し、「6人組」(Group des Six)の活動には加わらなかったイベールは、「祝典序曲」を、館長を務めていたローマのフランス・アカデミー(ヴィラ・メディチ)で1940年4月に完成した。その後、1941年にフランスのアンティーブで改訂しているので、今夜の演奏も改訂された版を使用している。

オネゲル(1892-1955)

交響曲第2番

チューリヒ出身のスイス人を両親として、ノルマンディー地方の港町、ル・アーブルで生まれたオネゲルは、音楽教育をチューリヒとパリの音楽院で受けた。東北スイス地方に流れるゲルマン風プロテスタントの伝統と、ル・アーブルやパリのラテン的風土が、ユニークな「二重国籍」の作風を形成し、「6人組」の1人ではあるが、他の5人とは一線を画している。

スイスの指揮者パウル・ザッヘルは、バーゼル室内管弦楽団とチューリヒのコレギウム・ムジクムの主宰者として、多くの現代作曲家に作品を委嘱した。バルトークの「弦・打楽器・チェレスタのための音楽」「ディヴェルティメント」ストラヴィンスキーの「ニ調の協奏曲」R.シュトラウスの「変容」F.マルタンの「小協奏交響曲」「弦楽のためのエチュード」武満徹の「ユーカリプスⅠ」等が生まれたのは、彼の功績である。オネゲルは、ザッヘルから1938年に交響曲の依頼を受けた。

1940年6月14日にパリをドイツ軍に占領されたフランスは、第1次大戦の英雄ペタン元帥が首相に就任した。休戦協定に調印して、フランス本土の5分の3(北半分と西部の大西洋岸一帯)をドイツ軍占領下に置く事となる。首都は中央フランスの保養地ヴィシーに移し、親独派のヴィシー政権が成立した。一方、ロンドンに逃れたド・ゴールは、自由フランス運動を指導し、国内のレジスタンスに対独徹底抗戦を呼びかける。ちなみに、レジスタンスに加わったか否かは、現在でも、フランス人の経歴上大きな問題となっている。

この様な戦況の下、パリに留まったオネゲルは、飢えと寒さと不安の中で作曲を続けて、1941年10月にニ調を主調とした3楽章から成る弦楽とアドリビトゥム(使用任意)のトランペットのための交響曲を完成した。彼が作曲した5曲の交響曲の内、2番目に当る。しかし、占領下のパリに居るオネゲルがスイスと連絡する手段はない。スコアのマイクロ・フィルムを入手したジュネーブの指揮者、アンセルメがバーゼルに届け、1942年5月になってチューリヒで漸く初演された。翌月には、パリでミュンシュが指揮して絶賛された。尚、この年にはドイツ軍の捕虜となったオリヴィエ・メシアンがシュレージエン(現ポーランド)の収容所で「世の終りのための四重奏曲」を完成し、収容所内で初演している。

プーランク(1899-1963)

グローリア

南仏山地アヴェイロン出身の父方祖先から受け継いだ真摯なカトリック精神と、生粋のパリジェンヌの母に影響された軽妙洒脱な都会的センスは、プーランクの作品に常に見受けられる基本的な2つの要素である。

第1次大戦最後の年である1918年に兵役につき、21年には除隊となったが、その間1919年に「6人組」の旗揚げ公演に参加している。2つの大戦の間に「エッフェル塔の花嫁花婿」「牝鹿」「2台のピアノのための協奏曲」「オルガン、弦楽オーケストラとティンパニのための協奏曲」等重要な作品が書かれ、1936年には、「ジャンヌの扇」を共作したフェルーの死を悼んで「ロカマドゥールの黒衣の聖母への連祷」を作曲し、宗教音楽に目覚めた。

第2次大戦勃発に伴い高射砲隊に召集されたのも束の間、休戦、武装解除と続き、戦中をほとんどパリで過す。この間、ドイツ軍の目を盗んで配られたレジスタンス作家であるポール・エリュアールの詩に作曲したカンタータ「人間の顔」は、レジスタンス作曲家の自由解放に対する讃歌であり、地下出版された楽譜はロンドンに送られて、BBC合唱団により大戦末期に初演された。

「宗教的精神というものは、南フランスのロマネスク教会の柱頭と同じ様なリアリズムの感覚をもって、太陽の光のもとにくっきりと浮び上って欲しい」とプーランクは語っている。戦後14年を経た1959年にクーセヴィッキー財団からの委嘱で「グローリア」を作曲し、ミュンシュ指揮のボストン交響楽団が1961年に初演した。「グローリア」は、プーランクの宗教作品の中で最もポピュラーな曲となっている。

Appartment Honegger vécut

(写真14-1)オネゲルが1931年11月から1936年3月まで住んだアパルトマン。彼の名声を決定的にした、「火刑台上のジャンヌ・ダルク」が作曲された。 – 1. Square Emmanuel chabrier, パリ17区

signe - zone postale

(写真14-2)写真14-1の場所の地名表示板

Appartment Honegger vécut et mourut

(写真14-3)オネゲルが1936年3月7日から亡くなるまで住んだアパルトマン。交響曲第2番もここで作曲された。歓楽街の中心に有り、代表的なレビュー会場のムーラン・ルージュの斜向かいに位置している。(地上階は、現在、怪しげなビデオ・ショップになっているが、中に入っていないので未確認) – 71. Boulevard de Clichy, パリ9区

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